【国語力を高める100冊】 #12「自我」/『方法序説』デカルト 岩波文庫
近代という時代は、デカルトの存在を抜きにして語ることはできません。デカルト思想が、近代に与えた影響の大きさについて、冨田恭彦は
だと述べています。また、デカルト思想の偉大さを象徴する言葉として、デカルトのことを「近代哲学の父」と呼ぶこともあります。では、近代の文脈において、デカルトの何が、そんなに偉大だったのでしょうか。
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「我思う。ゆえに我あり」は、『方法序説』の中にあるデカルトの言葉として、もっとも有名なものでしょう。訳者によって、少々訳の違いはありますが、ひとまず該当の部分を、実際に引用しておきましょう。
デカルトは、絶対確実な哲学の原理を求めて、ありとあらゆることを疑いました(方法的懐疑)。たとえば、宗教や科学なんてものはいくらでも疑えますし、現実だと思っているこの世界ですら、実は夢なのかもしれないと疑うことができます。しかし、ここまでラディカルに懐疑を突き詰めても、絶対確実なものが一つ残る。それは、「考える私」の存在です。もしかしたら私はいないのかもしれないし、私がいるこの世は嘘なのかもしれないといくらでも疑うことはできますが、それでも、そのように考えている私が、確実にいることは否定できない、とデカルトは言うのです。
こうしてデカルトは、方法的懐疑の果てに、絶対確実な存在としての「考える私」を取り出すのですが、興味深いのは、数学的な真理よりも確実な存在として、「考える私」が取り出されていることです。2+2が4であるのはあまりにも自明なことのように見えますが、デカルトは、欺く神が偽の数学的命題を吹き込んでいる可能性もあるとして、これも懐疑の対象とします。つまり、「考える私」は、数学や論理よりも絶対確実なものなのです。
哲学の原理が「私が考えること」にあるというのは、当たり前に思われるかもしれませんが、デカルト以前のヨーロッパでは、神学が力をもっており、聖書の解釈を論じることが哲学のスタイルでした。しかし、デカルトは、それまでの神学的な議論をいったん全て疑い、本当に確実なものだけを取り出そうとしたのです。この絶対確実な私という地点から、すべてを始めるデカルトの哲学は、近代的自我を確立したという点で、非常に画期的なことでした。
さらに、デカルトは、考える私を特権的に扱ったために、考えることは、身体にはまったく依存しないと考えました。この思考/身体という区分は、心身二元論とも言われますが、この二元論は、精神/物質、主観/客観という近代認識論の基本にもなりました。とはいえ、デカルトの哲学に対して、思考と身体はそう簡単に分けられないのではないか、客観世界という認識は人間が経験的に生きるこの世界の意味を喪失させるのではないか、といった批判は今に至るまでなされています。それでも、デカルトが投げかける射程の広い問いは、今でも人間とは何かという問題を考える上で非常に示唆に富みます。デカルトの解説書は多くありますが、是非、デカルトの『方法序説』そのものを読んでほしいと思います。
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