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【国語力を高める100冊】 #4「話す」/『日本語からの哲学』(平尾昌宏 晶文社)

 Y-SAPIXでは、「リベラル読解論述研究」という議論型の授業があります。この授業では、受講生にあらかじめ課題図書を読んでもらった上で、授業では、本の内容に基づいて議論を行います。そして、最終的に自分の意見を小論文という形でまとめてもらいます。

 こんなことを言っていいのかどうか分かりませんが、この「リベラル読解論述研究」の授業では、常に議論が活性化しているわけではありません。というのは、この授業には議論好きな生徒だけが集まっているわけではないからです。なかには講師や他の生徒の話をただ黙って聞いているだけの生徒もいます。
 
生徒は言います。
「自分の意見なんてない」「何を話せばいいのかわからない」。
 たしかに自分の意見もないのに何を話せばいいのか分からないというのは、もっともな話です。

ましてや、せっかく自分で考えて意見を言ったのに、「それは論理的ではない」などと否定されたりしたら、なおさらでしょう。
 
そもそも、「話す」ということは、どういうことでしょうか。


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『日本語からの哲学』(平尾昌宏 晶文社)は、日本語の論文では、なぜ「である調」の文体だけが認められ、「です・ます」調の文体は認められないのか、という問題に迫った本なのですが、私は、著者の考察を辿りながら、これは話すことの意義について述べた本だと思いました。


平尾昌宏『日本語からの哲学』晶文社、2022年

本書の内容を大雑把に要約すると、「である体」は、書き手の一人称に読み手を同化させ、知の共同体をつくることを目指した文体であるのに対し、「です・ます体」は他者に語りかける文体、つまり、〈わたし〉と〈あなた〉のあいだに意味が立ち上がってくる間主観的な文体である、というものです。
したがって、日本語の論文で「です・ます調」が忌避されるのは、「です・ます調」では、一人称と二人称がメインの世界観であるために、知の共同体を壊しかねないからなのです。

対話とは、一人称と二人称が主人公の「です・ます」調の世界です。
したがって、対話とは、論文のように客観的な知識を伝えたり、何かを論証したりすることではない、何か別の営みのはずです。
それでは、対話とは一体、何なのでしょうか。私は、対話の本質とは、「問う」ことにあるのだと思います。著者の言葉を借りれば、

「私が言おうとしていることに意味がありますか?」(279頁、前掲書)

といった問いを発することが、対話が対話であることの意味であると考えます。

問いとは、そもそも怖いものです。自分の考えを披露すれば、周囲から嘲笑を浴びるかもしれません。そうした怖さを克服して、自分の言葉を紡ぐことは、非常に勇敢で知的な営みだと私は思います。そこでは、話されている内容が論理的であるかどうかは二の次です。

あなたが、他者に向けて問いを投げかけていること自体が意味を持つのです。語ること自体に、語る主体が他の何ものにも代えがたい意味をもつ存在として、私たちの前に立ち現れてくるのです。パリ五月革命にも参加した、独自の共同体論を展開した思想家のブランショの言葉も、このことを鋭く突いています。

「語るということが、語られるものにまさっていたのだ」
(モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫、65頁)

「リベラル読解論述研究」の授業は、「何を話してもいい」場所です。
是非、リベラルの教室で、あなたの問いを発してみませんか。


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