【国語力を高める100冊】 #9「論理」/『自然論理と日常言語』山梨正明 ひつじ書房
いつの頃からか、国語は論理の科目だと言われるようになりました。学習指導要領の改定により、新しい国語科目として「論理国語」なるものが新設されましたし、書店に行くと、対偶、選言などといった小難しい論理結合子を持ち出して、読解法を指南する学習参考書まであります。まるで、文章を読むということは、論理的に読むということだと言わんばかりです。それを受けてか、若い国語講師の中には、論理学の教科書を買って勉強している人もいるのだとか…。
実際、私自身も受験生のときに、「論理的な読解力を身につけなければならない」「本文の論理をそのまま受け取ればいい」というような指導を受けてきました。ですが、正直、当時の私はこの論理というものがよく分からなかったのです(今もよく分かっていません)。国語は論理だと言われるわりには、その定義がはっきりしないように思うのです。
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論理には、形式論理と自然論理があります。通常、論理といえば、形式論理のことを意味します。形式論理は、形式的な推論を規定する思考体系です。少々分かりづらいので、例をあげましょう。たとえば、形式論理の条件法では、「Pならば、Qである」という形を取り、前件Pが、後件Qを論理的に限定します。
前件P「太郎が教会にいれば」は、後件Q「家にはいない」を論理的に規定しますから、これの対偶表現「太郎が家にいれば、教会にはいない」も同値で、真理となります(これは形式論理では、P→Qと表すことになります)。しかし、我々が普段使用する日常言語には、この形式論理にはない論理(自然論理)が存在します。
前件「喉が渇いているなら」は、後件「冷蔵庫にジュースがあるよ」を論理的に規定しているわけではありません。その証拠に、これの対偶表現「冷蔵庫にジュースがないならば、喉が渇いていない」は、例文の内容と明らかに異なっています(この文章の例は、後述の山梨氏の書籍に拠る)。形式論理では説明できない、この手の条件法は日常ではありふれており、私たちは何の違和感もなく使っています。
今回紹介するのは、『自然論理と日常言語』(山梨正明 ひつじ書房)です。この本では、形式論理では捉えられない、自然論理の特徴について多く紹介されています。自然論理とは、我々の日常経験に基盤を置いた認知プロセスによって規定される思考です。言い換えれば、自然論理とは、身体化された論理だと言えます。本書では、因果や否定といった抽象的な概念でさえも、元々は人間の身体に起因する論理概念だと述べています。一方で、形式論理は、人間の主観的な認知判断を徹底的に捨象したところで成立する脱身体的な論理です。
そして、言葉の世界は、言うまでもなく自然論理の世界です。文章には、評論、エッセイ、小説等、あまたのジャンルがありますが、いずれも表現主体の主観的な価値判断や身体的な経験に基づいた言葉の世界です。そうした自然論理の言葉を形式論理で読むことには限界があります。そういう意味では、文章を読むということは、論理をありのままに受け取るということではなく、書き手の世界観に参与し、書き手の意図を問いながら、読むことに尽きるわけです。小林秀雄は、「抽象的に考えるということは、人間をやめるということだ」と述べましたが、これを読むことに敷衍すれば、「形式論理で読もうとすることは、人間をやめるということだ」となるでしょう。読むことは、主観に支えられていなければなりません。
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