世界史こぼれ話#12/パレスチナ問題をわかりやすく~その4)イスラエル建国からハマス台頭まで【最終回】
中学校の社会科・高校世界史でも必ず勉強するパレスチナ問題。現在に至る対立の経緯について,わかりやすく解説します。
今回は,①ユダヤ教の歴史/②イスラームの歴史/③イギリス外交に続く4回目で最終回となります。最初から知りたい方はこちらからどうぞ!
*このほか「世界史こぼれ話」では,大学受験やビジネスシーンでも役立つ世界史の話を連載しています!
〇英領パレスチナを目指すユダヤ人
1930年代後半から,ナチス=ドイツによるユダヤ人迫害が強まりました。迫害を逃れてアメリカへ亡命した者もいました。例えば,1933年,ユダヤ人理論物理学者のアインシュタイン(1879~1955)はアメリカへ出国,同地で大学教授となり,市民権を得ています。
また,亡命を助ける動きもありました。1940年,外交官の杉原千畝(1900~86)はリトアニアの日本領事館につめかけたユダヤ人に対して,日本通過のビザを発給しました。
こうした国外への亡命の動きの中で,ユダヤ人の多くは「約束の地」であるパレスチナへ亡命しました。パレスチナはイギリスの委任統治領で,7世紀の頃から主にアラブ人が先住しています。その住居地や区内にユダヤ人が入植し,着々と土地を購入していきました。貧しかったアラブ人の反発は大きく,反乱が何度も生じています。こうして,パレスチナにおけるユダヤ人・アラブ人間の対立が激化していきました。
ところが,パレスチナの統治権を有するイギリスは,この問題解決を放棄して国際連合に委ねました。この措置はどういう意味かというと,もともと委任統治領とは,国際連盟から統治を委ねられた国家が治める領域という意味でした。しかし,国際連盟では第二次世界大戦を抑止できなかったために,国際連盟の後継である国際連合に戻しますよ,ということです。さて,国際連合はどのような決断を下したのでしょうか。
〇イスラエル建国とパレスチナ人難民
1947年,国連総会は多数決を経て,パレスチナの地をユダヤ人とアラブ人の二国家に分割する案を決議しました(パレスチナ分割案)。1948年5月,この決議に則って,ベン=グリオンを初代首相とするユダヤ人国家・イスラエルがパレスチナに建国されました。ここにユダヤ人待望のシオニズムが果たされたのです。
アラブ人はパレスチナ分割案に反対しました。何故なら,この分割案では,人口の少ないユダヤ人に対してパレスチナの約56%の土地を与えるという内容で,明らかにユダヤ人側に有利であったためです。しかし,分割案は1国1票の賛成多数で可決してしまいましたから,無効にすることはできません。そこで,アラブ諸国はイスラエルへの軍事侵攻を行います(第1次中東戦争)。
この戦争に敗北したアラブ側が被ったデメリットは2つあります。1つは,勝利したイスラエルの領土がさらに拡大したこと。戦争に至らなければ,失われなかった領土でした。もう1つは,これにより約75万人のアラブ人(以降はパレスチナ人ともいいます)が郷土を追われて難民となったことです(パレスチナ難民)。
1964年にはパレスチナ解放機構(PLO)が設立され,今度はアラブ人が失われた祖国を求めて闘争を開始します。
〇パレスチナ分割案の何が問題?
1969年にPLO議長のアラファトが選出された際にパレスチナ国民憲章が改定されました。その中で,❝1947年の分割案と48年のイスラエル建国はパレスチナ人の民族自決と矛盾している❞という主張が展開されました。
これは一体どういう意味でしょうか?
民族自決とは,自分たちの民族や共同体の運命を自らが決定できる,という国際連合憲章でも保全されている権利です。
パレスチナ人はこの権利を十分に行使できていません。厳密には分割案に反対するという意思を表明しただけです。パレスチナはパレスチナ・アラブ人のものであって,決してイスラエル・ユダヤ人には渡さない!従って,イスラエル建国も認めない!(分割案を拒否する=イスラエル建国に反対する)というわけです。
たしかに,パレスチナ分割案は大多数の非アラブ諸国の賛成票によって決議されたわけで,アラブ人らが自らの運命を決定したようにはみえません。この点は,一定以上の識者からも「パレスチナ分割案には問題があった」という指摘があります。
※アメリカ合衆国は国内のユダヤ系移民の世論に配慮をして分割案に賛成し,他国の投票行動に対して同調圧力を与えた可能性があったといわれています
1940年代後半の世界では,紛争地域や旧植民地であった地域において,2つ以上の国家が分かれて独立した例は多くあります。旧イギリス領インド帝国は①インド(ヒンドゥー教多数)と②パキスタン(ムスリム多数)に分かれ,旧フランス領インドシナ連邦は③ベトナム民主共和国(共産主義)と④ベトナム国(フランス植民地主義)に分離しました。このほか,旧日本領であった朝鮮半島からは⑤朝鮮民主主義人民共和国(ソ連寄り)と⑥大韓民国(アメリカ寄り)がそれぞれに独立しました。まとめるとこんな感じです。
④を除く国家樹立に際しては,それぞれの住民(国民)の圧倒的多数の支持がありました。その意味で,いずれも概ね民族自決に沿った独立のプロセスであったといえるでしょう。
こうした視点で捉えた場合,PLO側の言うパレスチナ人の民族自決論は筋が通っています。しかし,そうなると新たな論点が浮上します。
❝そのパレスチナに居住するユダヤ人にも民族自決権があるのでは?❞
そう、対立の根深さはここにあるのです。
〇和平合意と紛争対立の繰り返し
20世紀後半~21世紀にかけては,和平と対立を繰り返す歴史を歩んでいきました。次のまとめ表を見ると、ちょうど3歩進んで2歩下がる感じで,少しずつ解決の方向に進展していることがわかります。
⑴和平合意(1978~79)
⑴紛争対立(1982~87)
⑵和平合意(1993)
⑵紛争対立(1994~2000)
両者の間で合意や歩み寄りがあり,その都度,少しずつ関係改善の兆しがみられます。例えば,イスラエルを国家承認するアラブ諸国・勢力が増えており,同時にパレスチナにも国家的性格が付与されて他国からの承認も進んでいるということ。同時期の東西ドイツも,関係改善へ向けて相互承認を糸口としていました。
一方で,和平外交は国内で急進派の台頭を招きました。イスラエルのリクード(保守派)から輩出された首相シャロンは,2002年にヨルダン川西岸自治区に分離壁を建設しました。2004年に国際司法裁判所(ICJ)は分離壁を違法とする判決を出しましたが,イスラエル政府はこの勧告を聞き入れていません。
PLO内部では穏健派ファタハに代わって急進派ハマスが台頭し,「二国家共存」の道を断つと宣言しています。ハマスは現在ガザ地区で政権を担っており,一方のイスラエルではリクードのネタニヤフ首相の下で,力による現状変更という双方の応酬が続いています。
〇問題解決の糸口は?
✔双方で急進派の政権である場合には,和平の道は遠い?
政権交代あるいは急進派の台頭によって,現政権が差別化を図るために和平策に転じて,交渉等が進展する可能性あります。
✔イスラエルを支持するアメリカの関与
とくに1978~79年,1991~1993年,2003年において,アメリカが中東へ調停役として介入してきた歴史があります。少なくとも,1つ1つの和平交渉により,相互承認という意味での関係改善が進展したことを考えれば,2025年1月から始動する第2次トランプ政権にも,同様の動きが期待できるかどうか,というポイントが挙げられるでしょう。
✔「対テロ戦争」の状態を解消すべき?
攻撃対象が国家ではなく「テロ集団」である場合,軍事侵攻のハードルが下がります。イスラエルは,パレスチナ自治政府におけるイスラム組織ハマスを「テロ集団」と認識しており,だからこそ攻撃の手を緩めることがありませんでした。
2024年は,PLOがオブザーバー代表権を獲得してから50周年という節目でもあります。これまでに,イスラエルもパレスチナも,それぞれに国家という性格・地位が付与されてから時間が経っています。しかし,2024年5月にはパレスチナを「オブザーバー」の地位を格上げして正式な国連加盟国とする決議案が国連総会で採択されましたが,同年4月にアメリカが安保理決議上で拒否権を発動し,実現には至りませんでした。
「❝加盟国イスラエル❞と❝オブザーバー国家パレスチナ❞」という状態では,両者で対等な交渉が始まるには時間が要することでしょう。
※2024年時点で,日本政府はパレスチナ自治政府の国連加盟(オブザーバー枠から外す)に賛成しています
今回のこぼれ話はここまで。
ありがとうございました。
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