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世界史こぼれ話#11/パレスチナ問題をわかりやすく~その3)100年前のイギリス外交~

パレスチナ問題の歴史的な背景をめぐって。
3回目となる今回は,この問題が生じた直接的な原因に迫ります。
 
トピックはこちら。
☑ユダヤ人がパレスチナを重視する理由
☑イギリス外交は,何が問題だったの?
 
ビジネスに携わる方や歴史に興味がある方にとっては教養として,世界史を学ぶ受験生にとっても「役立つ」テーマを選んでいます。是非とも最後までお読みください。

*次回のテーマは「現代に繋がる中東問題」を予定しています「大学受験 Y-SAPIX」をフォローして,公開までお待ちください。

*「世界史こぼれ話」では,大学受験にも役立つ世界史の話を連載中です!


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◯ユダヤ人,ヨーロッパに居場所なくなる

 中世以降,ユダヤ人への迫害はヨーロッパ各国で,時に発作的に生じました。この動きは近代に入っても変わりませんでした。代表的な事例を2つ,紹介します。

①19世紀末~20世紀初めのロシア帝国で生じた迫害事件「ポグロム」
→ロシア語で「破壊」を意味するポグロム。1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺され,次代のアレクサンドル3世がこの暗殺犯をユダヤ人と決めつけた結果,集団的な略奪や虐殺が行われました。約1万5000人が犠牲になりました。

②19世紀末のフランス共和国で生じた「ドレフュス事件」
→ドイツのスパイ容疑で逮捕されたフランスのユダヤ系軍人ドレフュスが終身刑となりましたが,自然主義作家ゾラの抗議もあり,最終的には無罪釈放となった事件でした。
 
恐ろしいことに,この事件で明らかになったのは,「ユダヤ人は金に汚い→スパイになって報酬をもらったにちがいない→ドレフュスは有罪だ」というメディアの論調や軍部の宣伝に操作された民衆の差別意識でした。このような考え方を反ユダヤ主義といいます。

そして,反ユダヤ主義的な考え方はフランスに留まらず,ヨーロッパ世界に蔓延していました。

反ユダヤ主義がヨーロッパ世界に広まっていたことには,19世紀ならではの事情があります。19世紀はヨーロッパ世界で「国民国家」(Nation State)を創ろうという機運が生まれ,高揚した時代だったのです。国民国家とは,「統合された住民(=国民)から成る1つの国家を創る」という意味です。国民は均質的な文化を共有している場合が多く,その文化には言語や宗教も含まれます。民族性を重視するナショナリズム(Nationalism)は国家の統一運動にも重大な影響を与えました。

※実際に,イタリア語を話すイタリア人はイタリア王国(1861),ドイツ語を話すドイツ人はドイツ帝国(1871)として統一されました。ただし,統一には地理的な条件や政治的な手段(外交策)も必要になります。

 こういう時代は,少数派の社会集団にとって苦難であったことでしょう。
ユダヤ人は「ヨーロッパにいたら私たちの居場所がなくなる」と考えました。
 
ユダヤ人のヘルツル(1860~1904)はハンガリーのブダペスト出身でウィーン大学を卒業し,事件当時はパリで新聞記者として活躍していました。彼はドレフュス事件に衝撃を受けて声明を発表,「ユダヤ人の祖国をイェルサレムのシオンの地に再建しよう」という運動を開始します(主著『ユダヤ人国家』1896)。これをシオニズムといいます。以上,ユダヤ人がヨーロッパ世界から逃避した理由です。

黒い太枠内:第一次世界大戦開戦直前のオスマン帝国領
赤い領域:パレスチナ 白い丸:イェルサレム

しかし,当時のイェルサレムはイスラーム教のオスマン帝国が治めており,この地に国を建てるには,どう考えてもオスマン帝国が障害となります。けれども,ユダヤ人には国も軍隊もありません。あったのは,蓄積された資本(お金)でした。マネーの力で政財界に影響力を及ぼしたのが,ユダヤ系財閥のロスチャイルド家でした。

◯ロスチャイルド家とは

産業革命を経て,1801~1900年代(19世紀)には,資本家の下で利潤の最大化を目指す資本主義体制が確立されました。 

19世紀「末」にはこの動きが進展し,各企業体が競争によって統合されて強大化し,中には独占資本という,今でいう超巨大企業が各国で幅を利かせていました。ユダヤ系財閥のロスチャイルド家は,イギリス首相ディズレーリ(在任1868,74~80)に金融支援するほどの力を持っていました。この関係性が非常に重要になります。

◯第一次世界大戦が「祖国復活」の好機!

パレスチナ問題の原因を考えるとき,イギリス外交の視点を欠くことは出来ません。そこで,ここからはイギリス視点での話が続きます。

イギリス中心の三国協商陣営と,ドイツ中心の三国同盟陣営との間で,第一次世界大戦が始まりました(1914~18)。イェルサレムを含むパレスチナを有するオスマン帝国は,ドイツ側で参戦。この結果,イギリスとオスマン帝国が戦うことになるわけです。

例えば,1915年4月にガリポリの戦いがありました。ダーダネルス海峡付近で生じたイギリスVSオスマン帝国の戦いです。隣国のギリシアもイギリスを援護しますが,結果はイギリスが敗北。オスマン帝国が粘り強く抵抗したのです。
 
ヨーロッパの西部戦線が象徴的ですが,第一次世界大戦は長期戦の様相を呈しました。長期戦を乗り切るために採るべき作戦は,例えば2つあります。

❶謀略戦により,敵国を内部から崩壊させる。
❷戦費確保により,財政状況を安定化させる。
 

順番にみていきましょう。

❶謀略戦により,敵国を内部から崩壊させる。

敵国はオスマン帝国,内部とはメッカの太守フセインです。この人物に対して,イギリス人のエジプト駐在であった高等弁務官マクマホンが送った書簡から,秘密協定が結ばれました。いわゆるフセイン・マクマホン協定です(1915~16)。その主旨は,以下の通り。

・フセインは、アラブ人を率いて反乱を起こし,オスマン帝国を瓦解させる。
・イギリスはアラブ人の国家について,戦後の独立を承認する。

アラブ人はほとんどがイスラームですから,この協定はパレスチナを含む領域にアラブ人イスラーム国家が建設されることを意味しました。ところで,この時に両者で合意された「アラブ国家のおおよその範囲」をご存知でしょうか。次の通りです。

赤い四角の領域=アラブ国家のおおよその範囲

明らかにアラブ人国家の範囲にパレスチナ(イェルサレム)が含まれることを確認しておきましょう。

さて,アラブの反乱も功を奏して,1918年にオスマン帝国は降伏しました。【➊イギリスの謀略戦】の目的は達成されたといえます。

しかし,肝心のアラブ人国家の独立はどうなったのか?結論から言えば,対アラブ人への約束は概ね果たされたといえるでしょう。

次の年表をご覧ください。一時的なものも含めて,戦後に独立を達成した国家名に下線を引いています。(★)は国際連盟を通した委任統治を経てから独立した国家です。

1916~46年の期間に独立を達成したアラブ人諸国家は,フセイン・マクマホン協定(1915~16)で両者が合意した独立国家の範囲の中に含まれます。

しかし!パレスチナは?そう,ないのです。パレスチナという国家は独立していません。よく年表をみると,1920年にイギリスの委任統治領となり,同時にユダヤ人の入植がはじまったとあります。その背景には,イギリスとユダヤ=コミュニティの協力関係がありました。

❷戦費確保により,財政状況を安定化させる。

第一次世界大戦に話を戻します。長期戦となると財政状況が心許ないです。イギリスは,戦争継続を目的として財政援助を必要としていました。イギリス外務大臣バルフォアは,ユダヤ人協会の会長でもあったロスチャイルド氏へ書簡を送ります。書簡の要旨は次の通りです。

・イギリスは,ユダヤ人の民族的郷土建設について,賛意を表明する

上記の書簡をバルフォア宣言(1917年11月)といいます。この宣言を通じて,イギリスは多額の戦争資金を得る代わりに,ユダヤ人がパレスチナに居住することを認めたわけです。実際に,イギリスは第一次世界大戦という長期戦を遂行して,勝利をおさめることができました。同時に,パレスチナへのユダヤ人入植を奨励しました。

○イギリス外交の問題点を整理する

バルフォア宣言はアラブ人国家の独立を認めたフセイン・マクマホン協定(1915~16)と矛盾します。問題点はどこでしょうか?

・パレスチナの地域にアラブ人国家を建設する(フセイン・マクマホン協定)
・パレスチナにおけるイェルサレムを中心としてユダヤ人の民族的郷土を建設する(バルフォア宣言)

ひょっとしたら,アラブ人「国家」の中にユダヤ人の「民族的郷土」があるだけなのだから,問題はないと考えますか?いえ,根深い問題があります。

①「a National home」と「Nationalism」

「民族的郷土」は史料原文では英語で「a National home」と表記されています。「home」には確かに郷土という意味がありますが,似た意味で「故郷」とも訳せます。また,文脈によっては「祖国」という意味になります。この歴史的文脈とは何かというと,「19世紀以降における国民国家創建の時代」です。ナショナリズムに影響された国民国家建設運動をユダヤ人に当てはめると,シオニズムになるわけです。そのため,シオニズムは「ユダヤ=ナショナリズム」の萌芽ともいえます。
 
ナショナリズムは他の民族・国家の運動を促進するという波及的な効果がある一方で,また別の民族・国家の運動を阻害することもあります。ユダヤ人を例に挙げれば,ヨーロッパ世界におけるナショナリズムによって迫害を受けて,自らの主義主張(ユダヤ=ナショナリズム)を強めたということができます。

バルフォア宣言はイギリス政府によるシオニズム支持の表明であり,イスラエル建国の基礎をつくったと説明される理由はここにあるのです。

②まだあった!もう1つの矛盾外交

なお,第一次世界大戦中期におけるイギリスの外交は「秘密外交」とも呼ばれ,非公式な性格を帯びた協定や書簡という形式で取り交わされました。
例えば,イギリスはフランス・ロシアとの間で,オスマン帝国の領土分割とパレスチナの国際管理化を定めました(1916年サイクス・ピコ協定)。この協定内容は,アラブ人もユダヤ人も知りません。とりわけ,「独立国家建設を約束」されていたアラブ人側からすれば,サイクス・ピコ協定は「イギリスの裏切り」です。これを結んだ帝政ロシアを打倒した革命政府が国際社会に暴露したことでアラブ人がこの協定の存在を知り,憤激しました。

③ユダヤ人の入植~イスラエル建国までを導いた!

第一次世界大戦はイギリス側の勝利に終わり,戦後のセーヴル条約(1920)を契機として,パレスチナはイギリスの委任統治領となりました(1922~)。ユダヤ人の入植も始まります。しかし,周辺地域には次々と独立していくアラブ諸国家の存在。パレスチナ内部では,先住アラブ人社会にユダヤ人が入っていくケースが増えました。

青い矢印が示すように,特に1930年代にはユダヤ人入植者が激増しました。これはとくにナチス=ドイツによるユダヤ人迫害が影響しています。これ以降,パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の間で土地をめぐる対立,軍事衝突が頻発するようになりました。
 
国際社会において,共存共栄の統一国家をつくることは困難,ユダヤ人にはユダヤ人国家,アラブ人にはアラブ人国家をそれぞれ建てるほうが現実的と考えられたのでしょう。

戦後の分離独立・独立国家の先例としては,イギリス領インド帝国が挙げられます。1947年の8月にはインド・パキスタンがそれぞれイギリスから分離独立を果たしました(またイギリス…)。民族と宗教が異なることに起因する対立は根深いものがあります。

そして,同じ年の11月に,イギリスは「パレスチナ問題」を国際問題として放棄し,新設された国際連合へ委ねました。国連総会で決議されたのが,パレスチナ分割案です。こうして,ユダヤ人国家=イスラエル建国となりました。しかし,アラブ諸国は猛反対!以降は中東戦争へ続きます。
 
第二次世界大戦後の世界は冷戦の時代であり,アメリカ合衆国とソ連が二大陣営に分かれて対立しました。実際に,パレスチナ問題は「中東戦争」として表面化していきます。かつてのイギリスのプレゼンスは無くなり,代わりに米ソが中東へアクセスします。次回は【最終回】イスラエル建国~21世紀までをテーマとします。

今回のこぼれ話はここまで。次回も是非お楽しみに。それではまた!

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