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世界史こぼれ話#8/司馬遷『史記』から拡張する世界史

司馬遷は中国の前漢時代の歴史家で,著書『史記』が有名です。

しかし,司馬遷の半生や死刑宣告を受けたという苦い経験など,意外と知られていない話も多々あります。

今回は,司馬遷と『史記』を掘り下げて解説します。


■司馬遷ってどんな人?

司馬遷(前145ごろ~前86ごろ)は生没年に諸説がありますが,周代から続く史官の家柄で生まれ,父が太史令(主に歴史を扱う役所の長官)でした。
その影響もあってか,10代で古典の書籍を読み耽ったそう。20歳の時に,父の命令で歴史編纂のために記録収集を行うことになり,各地を旅行しました。

そして,23歳で前漢武帝(在位前141~前87)に仕える侍従職を拝命します。
そのあと,病死した父の意志を継いで歴史編纂事業を継続することを誓い,父の亡き後に太史令に着任します。

司馬遷が仕えた武帝は,前漢の最大領域を達成した一方で,財政難への対応として,塩・鉄の専売や物価調整策を講じました。

こうした経済政策は,国家(政府)が主体となって進められたため,民間の業者や商人にとっては打撃になることもありました。

こうした事態を受けて,司馬遷は「民業圧迫」と主張して,武帝による経済政策を批判することもありました。
※詳細は2021年度大学入学共通テスト「世界史B」第1問を参照≪大学入試センターHPへ飛びます≫

皇帝の政策を批判することは,とても勇気がいることでしょう。
司馬遷はきっと物怖じしない,実直な性格だったのかもしれません。

こうした真っ直ぐな性格が仇となることを,この時の司馬遷は知る由もなかったのでした…。

■友をかばって,地獄をみる…

前99年,絶え間なく続く匈奴きょうど(北方の遊牧国家)との戦争の最中で,将軍の李陵(?~前72)が投降し,匈奴に捕らえられてしまいました。

※『山月記』で知られる中島敦は小説『李陵』を著し、こうした李陵とその一族の悲運を描いた。

朝廷では,李陵とその一族全員を処刑する案も浮上しましたが,このとき司馬遷は反対し,李陵を弁護しました。

その結果,武帝の怒りを買ってしまい,なんと司馬遷も死刑判決を命じられてしまいます。

“しかし,私がここで死んでしまったら,一体だれが歴史編纂を続けるのか”
“だれが父の遺志を継ぐのか” “ここで刑死することは避けたい”

きっと,上記のように思いを巡らせたことでしょう。

実際に,司馬遷は死刑に次ぐ重い刑罰であった宮刑きゅうけいを受け入れるかたちで死を免れ,歴史編纂を続行する道を確保したのでした。

宮刑きゅうけいとは,去勢される刑罰のことです。
中国史では,異民族の捕虜になった者や皇帝の命令によって罪人とされた者が去勢されることはよくありました。司馬遷は宮刑ですので,後者のパターンということですね。

とはいえ,十分な麻酔もない時代ですから,去勢された男性の苦しみは想像を絶するものです…。

※去勢男子は宮廷務め?
去勢された男子は宦官かんがんとして,宮廷や後宮などで雑役を担いました。身体の一部を欠いているので「異質な存在」とみなされ,宮廷を出入りする官僚から見下されるなど,周囲の目は冷ややかだったといいます。

司馬遷は出獄後も世間からの冷笑に耐え,絶望的な恥辱に苛まれながらも,前91年,ついに『史記』を完成させました。

■世界史受験生必見!『史記』をまるっと理解する

『史記』は全部で130巻にもおよぶ中国の歴史書です。
原書は竹簡・木簡などの木材に書かれていました。

その内容は,三皇五帝に始まり,伝説上の夏王朝・実在が証明された殷王朝,そして,封建制を創始した周代へと続き,始皇帝による統一秦,当代武帝の前漢までを範囲とする通史です。

『史記』には,世界史受験にも関わる重要な内容が記されています。
大学入試問題などにもよく登場するトピックを以下に列挙します。

・夏王朝の存在※1,夏を創始した王による治水事業(夏本紀)
・殷の暴君ちゅう王と「酒池肉林」の伝承(殷本紀)
・殷周革命が放伐の形式であったために抗議の末に餓死した人々
・周による封建制導入(周本紀)
・西周の滅亡,幽王と褒姒(ほうじ)と「烽火のろしび」に言及
・君主の在位期間,埋葬地,後継者名など(秦始皇本紀)
・始皇帝による「焚書坑儒」※2
・始皇帝没後の帝位をめぐる政治的動乱
・秦崩壊後の項羽が覇権を唱えた時代
・項羽と劉邦の対比的な人物像
・前漢武帝の時代における領土拡大と経済政策
・匈奴の遊牧生活と社会状況(李将軍列伝)※3
・アルサケス朝のパルティア王国を「安息」と記す
・朝鮮,南越,大宛(フェルガナ)などの周辺世界情報
※1:考古学・歴史学的な証拠は無し
※2:儒家に限らず術士を穴埋めにした,とする見方も
※3:騎馬遊牧民の社会に言及したのは,ギリシア人の歴史家ヘロドトスも同様

■「紀伝体」をもっと具体的に

物事を順序立って述べることを「叙述」といいますが,司馬遷は『史記』の全てを年代順で叙述したわけではなく,新しい形式で叙述しました。この叙述スタイルを紀伝体といいます。

詳細は以下の通りです。

お気づきの方もいるかもしれませんが,本「紀」と列「伝」から成るという意味で,紀伝体と呼ばれています。なお,すべての内容を年代順で記す叙述スタイルを編年体といいます。

『史記』は紀伝体で記された初の中国通史ですが,後漢の時代に班固(32~92)が紀伝体で『漢書』(前漢のみの断代史)を執筆しました※4。
これ以降,歴代王朝ごとに紀伝体で歴史書が作成されるようになりました。

※4:歴代の複数の王朝をまとめた通史と,王朝一代のみを記す断代史など,扱う範囲はさまざまあります

なお,唐代(618~907)以前は,司馬遷の『史記』や班固の『漢書』のように,あくまで個人の著書として執筆されていましたが,唐代以降は国家事業として,勅命によって前代王朝の歴史書が編纂されるようになります。

このように捉えると,司馬遷の『史記』は後世における中国の歴史書の原型となったことがわかると思います。

■中国正史は「すべてが事実」とは限らない!?

国家によって公式に編纂された、自王朝以前の歴史書のことを正史せいしといいます。なお,正史とは東アジア世界に通底する考え方で,朝鮮や日本にも正史はあります。

司馬遷の『史記』,班固の『漢書』,陳寿ちんじゅの『三国志』,范曄はんようの『後漢書』…などが中国の正史とされており,清代に24の史書が認められました(二十四史)。

ただし,何を「正史」とするかは,時の王朝が決定します。
だからこそ,その王朝は前代王朝を批判的に記すことも多いのです。

ここで重要なことは,批判的であることが問題なのではなく,「その正史の全てが事実とは限らない」,という点です。

「司馬遷の『史記』は正史とされているのだから,書かれていることは全て事実なんだ!』という理解は誤りになります!ご注意ください。

少なくとも,歴史を学習する皆さんは,正史については,事実の部分と執筆者の見識,個人の意見(感想)などとをしっかりと切り分けて読むように,注意したほうがよいでしょう。

☆追記
もっとも,中国史をテーマとした時代小説や英雄譚,ドラマも面白いですよね。楽しみ方の一つとして、例えば「あ,これは脚色入っているな」とか「で,実際の歴史はどうなってたっけ?」という風に,事実となる部分を気にしておくだけでも,歴史を視る眼を養えるでしょう。

今回のこぼれ話はここまで!

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次回も是非お楽しみに。それではまた!

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