リベラル書籍紹介 #1 『宗教を物語でほどく―アンデルセンから遠藤周作へ』島薗進
この連載ではY-SAPIXのオリジナル科目「リベラル読解論述研究」において使用する書籍について、担当する職員が紹介していきます。
今回は冬期講習で高校生向けに使用した『宗教を物語でほどく―アンデルセンから遠藤周作へ』です。
今回の書籍
「読後感」。一冊の本を読んだあと、物語を終わりまで見届けたあとに浮かぶさまざまな感情や感想をまとめて指す言葉です。それには面白かった、スカッとした、というような快いものもあれば、考えさせられた、などある種の反省を含むものもあるでしょう。しかし、そのどれとも違う、こういった読後感の物語に出会うことがあります。
「救われたような気持ちがする」
私たちはしばしば、人生において突然の喪失や大きな苦しみを経験することがあります。大切な存在と別れ、立ち直れない。自分ひとりでは到底解決できない困難に襲われている。理不尽な暴力を受け、そこから逃げられそうもない。悲しみ、痛み、絶望や無力感…。しかし、前述したように私たちは物語を読んで一気に救われることがあります。それはなぜでしょうか。『宗教を物語でほどく』はそれぞれの物語を読み解きながら私たちに生きるヒントをくれる一冊です。
「救われる」という感情と宗教につながりがあることは、なんとなく想像がつくかもしれません。しかし、具体的な宗教文化やそこに潜む思想まで含めると、宗教という概念そのものがまだまだ現代日本社会には浸透が浅いのも事実です。そこで著者は宗教が「人間が直面する『限界』を乗り越える力を持っている」ことを強調しています。著者はその「限界」を「死」「弱さ」「悪」「苦難」の4つに分類したうえで、さまざまな物語のなかにみられる宗教的な要素、すなわち「限界」を乗り越える姿勢に着目します。
「死」「弱さ」「悪」「苦難」。これらは先述した、私たちがしばしば経験する喪失や苦しみ、悲しみの状況と重なるものがあります。各章の冒頭では、具体的にはどのような点でそれらが人類の「限界」といえるのか、そしてなぜ宗教はこの限界を乗り越える力を持っているのか、ということが説明されています。この部分を自らの経験をイメージしながら読めばここに登場する物語への理解が深まるでしょう。
たとえば、本書第4章「『苦難』を受け止める」の章では、2021年度11月期高校リベラル読解論述研究の課題書籍である石牟礼道子『苦海浄土』が紹介されています。この物語は本書において、苦難を受け止める性質を持った内容である点が注目されています。この物語における苦難は水俣病という公害によってもたらされました。公害は戦後の高度経済成長期に発生したものです。多数の日本人にとってはなじみのない病であり、それゆえに本書に登場する人々は未知の痛みや苦しみ、差別、偏見に苦しみます。この節において著者は、こうした苦しみが細かく真に迫って書かれた描写を分析する一方で、汚染された海を目にしてなお、人々が海の思い出を愛しもう一度海と共に生きたいという、ある種の信仰を同時に持っていることにも注目しています。冒頭で著者は、従来の宗教が持つ救いの要素、すなわち苦難を受け止める要素のひとつとして、宗教によって共同体をつくり教えを分かち合うことで、ともに苦難を乗り越えられる姿勢を形作ることがあると説明しています。しかし、科学や産業が発達した世界における、自然と人間の交流の断絶を描いた「苦海浄土」においては、作者・石牟礼道子が指し示す救いの要素はそれとは異なり、水俣病患者の苦しみと信仰を同時に描くことにより、個人のなかの宗教的感性を目覚めさせることこそが重要である、としています。詳しい解説はぜひ本書の該当部分を読んでいただきたいですが、このように宗教学的観点から物語を紐解くことができる点は、本書がもたらす新鮮な読者体験といえるでしょう。
終章では、物語に救われる気分になることとは、すなわち物語に感動することであると述べられています。私たちは何に救われたといえるのか、心の中にある「救われるべきだった」部分の正体とは何か。その答えを探すことは、自分自身の感情が動く瞬間をはっきりととらえることでもあるのです。自分はいつ、どんな感情に動かされ、どんな気分になるか。それを知ることは、自分自身をよく知ることにもつながるはずです。