大学歴訪録 #7 慶應義塾大学
「協調」して「分断」に抗い
「先導者」としてより良い社会を目指す
慶應義塾大学は160年を超える歴史を持つ、東京の名門私立大学です。2021年5月、新たな慶應義塾長に就任した伊藤公平先生に、慶應義塾OBでもあるSAPIX YOZEMI GROUPの髙宮敏郎共同代表がリモートインタビューでお話を伺いました。
「先導者」となるには
世界との「協調」が必要
髙宮 伊藤塾長は修士号と博士号をカリフォルニア大学バークレー校で取得されています。海外で博士号を取られた塾長は珍しいですが、先生のこうしたバックグラウンドは教育理念にどのように反映されているのでしょうか。
伊藤 1858年に慶應義塾の前身の蘭学塾を創設したとき、福澤諭吉先生は、西洋の事情をよく見ながら文明開化を進めるべきだと主張しました。この考え方は今も慶應義塾に息づいていると思います。
私は慶應義塾で長く学びましたが、アメリカで育ち、アメリカの大学を卒業した私の父からは「世界を目指せ」と言われ続けてきました。福澤先生は慶應義塾創設の目的を「以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」としていますが、それを現在に当てはめれば、世界の「先導者」となるにはどうすればいいか、ということになるでしょう。
私は「協調」が重要だと考えています。世界を独りで先導することは不可能ですから、世界とつながり、有志の人々と先頭集団を作って、互いに切磋琢磨しながらリードしていくべきです。その際には多くの人たちに後に続いてもらうことも必要です。また、取り残される人のないよう、しんがりも自分たちで務めなければならないでしょう。世界レベルでこうした共通の目的を持ち、一人一人が自分で考え行動することこそ、私の考える慶應義塾の精神です。
慶應義塾長 伊藤公平先生
髙宮 日本の大学と海外の大学では何がどう違うと思われますか。
SAPIX YOZEMI GROUP 髙宮 敏郎 共同代表
実際のリモート取材風景
伊藤 世界中から学生が入学する海外の主要大学では、個人の意見や価値観は違うのが当たり前。自分の考えが正しいと思って発言しても、「違う」と即座に否定されることもしばしばです。そこで、自分の主張を通そうと思ったら相手を説得しなければならないし、説得される側も相手の主張を理解しようと真剣に耳を傾けなければならない。このように、たとえ考え方は異なっていても、「社会を良くしていこう」という共通の思いを抱く人々が集まることがとても重要です。
一方、日本の大学は学生同士が尊重し合い、チームワークを良くしようと努めるので、とても居心地がいい。これ自体は素晴らしいことですが、世界を舞台に問題を解決しようとするとき、それだけではやっていけないのも事実です。
留学生を増やすだけでは
多様性は担保できない
髙宮 今、日本の多くの大学では、より豊かな多様性を実現するため、留学生を増やそうとしたり、女子の比率を高めようとしたり、首都圏の大学では地方出身者の獲得に力を入れたりするなどの施策を進めています。慶應義塾ではどのように取り組まれていますか。
伊藤 例えば、私の所属している理工学部では、ダブル・ディグリー(※1)などさまざまな制度を活用して、主に大学院レベルで多くの留学生を受け入れています。私の研究室でも、メンバーの半数以上が留学生、という時期もありました。ただ、彼らは日本が好きで留学するので、和を重んじる日本の文化を一様に尊重してくれます。だから先輩の言うことをよく聞くし、反論もしません。単に留学生を増やすだけでは、海外大学のようなカオスは生まれないことに気づきました。
髙宮 今後、多様性をどのように担保していくべきか。なかなか難しい問題ですね。
伊藤 ここ数年、多様性に関する議論でジェンダーやLGBTについてよく話題に上ります。かつて留学していたカリフォルニア大学バークレー校ではレズビアンやゲイの人とはごく普通に交流していましたし、「自分はエイズだ」と告白する人もいました。
あるとき、ドイツから著名な学者が講演に来て、「今日は材料としてのシリコンとダイヤモンドについて話しますが、会場には女性が多いので、まずダイヤモンドの話からしましょう」と発言した途端、会場から猛烈なブーイングが起こり、講演が中止されたことがあります。「女性とダイヤモンドを安易に結びつけるのはけしからん」というわけです。
これは約30年前の体験ですが、ジェンダーやLGBTの問題はより複雑化しており、本学ではそれを踏まえて多様性を考えていかなければなりません。
生涯の友と出会い
「人生の好循環」を始める
髙宮 「先導者」という言葉は、大学HPの「塾長メッセージ」(※2)でも使われていますね
伊藤 慶應義塾塾歌の二番に「わが手に持つかがり火が、行く手を正しく照らす」という意味の歌詞があります。福澤先生の思想をよく表している歌詞ですが、「先導者」とはこのかがり火を持つ人ではないでしょうか。それも誰か1人が持つのではなく、私は全員が持っているようにイメージしています。ただ1人のリーダーが行き先を決めるわけではありません。福澤先生はそれを望んでいないし、私もそんなことができる人間はいないと思う。各自が行き先を照らすことが重要なのです。
福澤諭吉胸像。日本最初の演説会堂として建造された三田演説館の前に設置されています
慶應義塾塾歌は1940(昭和15)年、慶應義塾大学教職員・富田正文の作詞と作曲家・信時潔の作曲により完成した。大学HPの「塾歌・カレッジソング」(※3)のコーナーに全歌詞が掲載されている。リンク先では演奏も聴ける。
伊藤 この話はアリの集団にたとえると分かりやすいでしょう。アリは餌を探して巣に持ち帰ります。1匹1匹の動きはばらばらに見えますが、集団としては「巣の存続」という目的達成に向かって動いています。先導者の動きもそれと同じで、一人一人の考えや意見が違っていても「分断」せず、全体が大きな目的に向けて「協調」することが重要なのです。
髙宮 塾長メッセージでは「人生の好循環」という文言も印象に残りました。
伊藤 物事には良い循環と悪い循環があり、その結果は大きな差となって現れますから、人は自分の人生を好循環させなければなりません。そのポイントになるのが、良い仲間に恵まれること。私は慶應義塾こそ生涯の良き友に出会える場だと確信しています。
私は慶應義塾のさまざまな同窓会に立ち会う機会が多いのですが、そこでよく耳にするのが、「世界一の大学に乾杯!」という乾杯の音頭。「世界一の大学」とは大げさな言い方ですが、ご自身たちは真剣そのもので、「慶應義塾から人生の好循環が始まった」と話す人が実に多い。だから私も塾長メッセージに「人生の好循環の始まり」と書かせてもらいました。
強調しておきたいのは、人生の好循環=分断された社会の勝ち組ではない、ということ。慶應義塾の「先導者」は「分断」を最も嫌います。理想はあくまで1人も置き去りにせず、社会全体を良い方向に導くことなのですから。
体育会は大学の代表として
「祝福された勝者」を目指す
髙宮 伊藤先生は大学時代、庭球部で活躍され、塾長に就任するまで体育会庭球部長を務められていました。体育会の意義をどうお考えでしょうか。
伊藤 かつて塾長を務めた小泉信三先生は、「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という名言を残しました。たとえ不可能と思われることでも、練習次第でできるようになる。スポーツを通じてそれを体験できることこそ、慶應義塾体育会の大きな意義だと考えています。
髙宮 私も在学中、体育会準硬式野球部で日々練習に明け暮れていましたが、小泉先生のその言葉に何度苦しめられたことか(笑)。今も座右の銘として、自分のオフィスに掲げています。
テニスコート横に設置された「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑。伊藤塾長はこの碑に見守られながら毎日練習に打ち込みました
『練習は不可能を可能にす』(小泉信三著・慶應義塾大学出版会) 経済学者で、慶應義塾長を務めた小泉信三は、学生時代にテニスの選手として活躍し、スポーツ全般に関する造詣も深い。本書は小泉信三のスポーツにまつわる随想集。「果敢なる闘士たれ、潔き敗者たれ」などの名言も収録されている。
伊藤 体育会の各運動部は慶應義塾大学のユニホームを着て、つまり大学代表という特別な看板を背負って試合に臨みます。
その際、私が重要だと考えるのは、「祝福された勝者」を目指すべきだということ。試合に勝ちさえすればいいのではなく、勝ち方が大切であり、もっと言えば、勝ち負けという結果を問わず、他者から応援してもらえるような戦い方をすべきということです。
これは必ずしもスポーツに限りません。フェアプレーを重んじ、自分の苦手な部分は誰かに助けてもらいながら、みんなの力で気持ちよく物事を進めていく。見ている人に「この人たちと一緒に取り組みたい」と思ってもらえるようなチームプレーを実践する。それが結果的に、仲間を世界に広げることにつながります。この考え方は同窓生の集まりである「三田会」にも通じるものです。
慶應義塾では在学生を「塾生」、大学・大学院の卒業生等を「塾員」、塾生・塾員・教職員・塾生の保護者等をまとめて「義塾社中」と呼ぶ。慶應義塾は塾員同士の結束が固いことで知られ、その同窓会が「三田会」。三田会は塾員有志が自発的に組織・運営しており、卒業年度別、地域別、職種別、クラブ別など880以上のさまざまな三田会が存在する。その三田会を束ねるのが「慶應連合三田会」で、毎年秋に日吉キャンパスを中心に大規模な同窓会・慶應連合三田会大会が開催され、国内外から2万人が集う。また、卒業25年目の塾員を大学卒業式に、卒業50年目の塾員を入学式に招待する「塾員招待会」も毎年開催され、塾生を激励すると同時に塾員同士が旧交を温める場になっている。
コロナ対策は情報公開が鍵
ワクチン接種も迅速に
髙宮 三田会のお話が出ましたが、2020年はコロナ禍で慶應連合三田会大会が中止されました。2021年はオンラインで実施され、塾員として一安心しました。とはいえ、新型コロナへの対応では、今もご苦労されているのではないでしょうか。
伊藤 コロナ対策で重視しているのは情報公開です。「今、○○が必要だと考えているので××します」と、逐一説明することが大切なのです。コロナ対策については、理事会や一貫教育校などさまざまな人たちと議論していて、時に意見が割れることもありますが、それでも「分断」することなく全体が常につながっていることを目指します。「違う」と言う人を置いてきぼりにしてはなりません。
髙宮 慶應義塾では学生と教職員を対象にした新型コロナワクチンの職域接種にも迅速に取り組みましたね。
神宮の杜に臨む、医療に特化した信濃町キャンパス
伊藤 コロナ対策にはワクチン接種が必須と考えていたので、職域接種ができると分かった時点で、広報、保健管理センター、大学病院など関係部署約80名をZoomでつなぎ、問題点を逐一つぶしながら1時間ほどで実施することを決定しました。
髙宮 本日は懐かしいお話も聞けて楽しかったです。最後に、受験生である読者にメッセージをお願いします。
伊藤 今、世界の大学は勝ち組と負け組に分断されつつあります。だからこそ、本学では他の私立大学と協調しつつ若い人を育てていきたい。世界の先導者となる覚悟を持って、世界レベルで協調を作り出そうと考える多くの若者に期待しています。
■プロフィール
慶應義塾長 伊藤 公平さん
いとう こうへい●1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。1992年カリフォルニア大学バークレー校工学部M.S.(修士号)取得。1994年カリフォルニア大学バークレー校工学部Ph.D.(博士号)取得。1995年慶應義塾大学理工学部助手、2002年慶應義塾大学理工学部助教授、2007年慶應義塾大学理工学部教授。2021年5月慶應義塾長就任。2020年日本学術会議会員。専門は固体物理、量子コンピュータ、電子材料、ナノテクノロジー、半導体同位体工学。主な著書に『ダイヤモンド電子スピン量子センサー』(共著)、『物性物理学ハンドブック』(共著)などがある。
■慶應義塾大学の紹介
三田キャンパス/図書館旧館。国の重要文化財で、2階の一部は慶應義塾史展示館として公開されています
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり―。
1872(明治5)年に出版された『学問のすゝめ』の、あまりにも有名な冒頭の一文です。著したのは、幕末から明治にかけて活躍した武士で、啓蒙思想家、教育者でもある福澤諭吉。その福澤諭吉によって1858(安政5)年に蘭学塾として創設されたのが、現在の慶應義塾大学です。あまり知られていませんが、慶應義塾大学はあの『学問のすゝめ』よりも先に誕生していたのです。
以来、今日まで160年以上もの歴史を積み重ねていて、今や幼稚舎(小学校)から大学院までを擁する一大総合教育機関になりました。大学は三田・日吉・信濃町・矢上・湘南藤沢・芝共立に六つのキャンパスを持ち、文・経済・法・商・医・理工・総合政策・環境情報・看護医療・薬の10学部で多種多様な学問領域をカバーしています。
「AI・高度プログラミングコンソーシアム」では運営や講師を学生が務め、先に知識を習得した者は教える側に回るという、慶應義塾の「半学半教」の精神を実践。ビジネスセンスと国際性を持ち、AIやプログラミングに通じた学生の育成にも取り組んでいます。
■Y-SAPIXよりお知らせ
この記事は2021年12月20日に刊行された『Y-SAPIX JOURNAL』2022年1・2月号に掲載された記事のWeb版です。
▼『Y-SAPIX JOURNAL』配布中!
今回の「大学歴訪録 慶應義塾大学」のWeb版未収録部分の他、大学受験にまつわる情報などを掲載した『Y-SAPIX JOURNAL』を配布中です。
ご要望の方はこちらからお申し込みください。