リベラル書籍紹介#4 『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』イチロー・カワチ
この連載ではY-SAPIXのオリジナル科目「リベラル読解論述研究」で使用した書籍について、担当する職員が紹介していきます。
今回は3月期に中学2年生の授業で使用した『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』です。
本書のテーマは「健康格差論」です。社会に存在する格差が、人々の健康にどう影響するかということについて論じています。労働や教育、そして日常生活のあらゆる場面に格差が存在しています。格差によってもたらされた分断は時に大勢の人々の生活の質を下げ、幸福追求権を阻害する大きな要因となります。そのため解決を急がなくてはいけない深刻な社会問題と言えます。そして健康に関する問題も避けて通れない課題のひとつであり、人々の関心を引くテーマのひとつです。それを反映するように健康関連の書籍も数多く見られますが、それは主に個人に向けて生活習慣の改善等を促す内容です。格差と健康、この二つをすんなり結び付けられる人は少ないかもしれません。
本書を読むと、あらゆる格差は長期的に見て、個人の健康と密接に関係していることがわかります。たとえば経済格差が大きい地域では、医療水準が低く、平均寿命が短くなる傾向があります。また、教育や労働における格差がその後の性格や生活習慣、ストレスの受容に大きな差をもたらすことが説明されています。ここから著者は学歴や職業、家庭や周辺の人間関係、地域に多く存在する店などあらゆる要素が個人の行動に影響を与え、健康に大きく影響することを示唆しています。著者はこういった概念を「パブリックヘルス」と呼び、個人の健康というものは個人の責任のみに帰結するのではなく、社会全体の影響によるところがあると結論づけています。つまり、個人の健康は常に当人の意識次第で変えていくものという考えだけでなく、個人の労働環境や生活する地域、経済状況などを検討することが必要だという視点も同じくらい大切なものだとしています。
また、著者は心の健康を保つ大切さについても説明しています。たとえば、ストレスと寿命の関係です。経済格差がある地域では、平均所得と自分の所得を比較した結果、負の感情を抱える人が多く存在するため、こうしたストレスが寿命を短くする要因のひとつとなっている事例が挙げられています。さらに本書の第4章では、著者は何らかの集まりに参加したり、人と話したりすることで人とのつながりを作り、楽しむことの効果に言及しています。これと関連して著者は、日本人の平均寿命がトップレベルで高い理由についての分析を行っており、それは自治体などの定期的な集まりや、近所付き合いでいざというときに助け合う習慣が日本社会には根付いており、その時の協調的な行動が健康によい影響をもたらすと述べています。ただし、孤立化が進む現代ではそのような習慣が廃れつつあることで、この平均寿命の長さが危機に陥っていることについても警告しています。
本書に限らず「心の健康」は、近年注目されています。たとえば、昨年度にY-SAPIXの4月期高校リベラルで扱った斎藤環『人間にとって健康とは何か』では「健康生成論」として、SOC(「心の健康」を表す尺度)やレジリエンスという観点を用いて、急な不幸や失敗に対してもダメージが少なくなるようにする術を身につけたり、幸福度を客観的に分析して幸福と呼べる状況を探ったりするなどの方法で、心理的な健康状態を作り出していくための方法を考察しています。また、本年度の東京大学入試の国語第1問(評論)では「ケア」を主題とする文章が出題されましたが、患者の声や人間性に耳を傾けたり、自助グループを患者らが作って支え合ったりすることの重要性に触れています。
現代社会では、あらゆる分野で日々めざましい技術の進歩がみられます。医療の世界もそうです。病気やけがに効く薬が安価で手に入るようになり、患者の負担を少なくする治療法が日々研究されています。しかし、そうして日々進歩する社会は同時に、情報の入れ替わりが激しく複雑なものでもあります。そして、その流れについていけない人が過大なストレスを受け、心身の調子を損なうという側面もあります。この対策として、日頃の生活の質を上げ、毎日を楽しく過ごすことが大切ですが、そのアプローチの一環として「心の健康」に注目する流れは今後も続いていくものと思われます。また、ストレスをもたらす要因には、周辺の環境が少なからず関わってきます。本書を読んで健康についてより深く考えてみてください。