リベラル書籍紹介#12『今昔物語集・ビギナーズクラシックス』
この連載ではY-SAPIXのオリジナル科目「リベラル読解論述研究」で使用した書籍について、担当する職員が紹介していきます。
今回は、12月期の中3で使用した『今昔物語集・ビギナーズクラシックス』です。
『今昔物語集』について、学校や受験勉強で身につける「知識」にはどのようなものがありますか。
「説話集…。平安時代末期の成立…。作者未詳…。全話『今ハ昔』の書き出し…」このあたりでしょうか。
しかし、これらの「知識」は『今昔物語集』の表層であって、『今昔物語集』という古典の本質ではありません。
『今昔物語集』巻第十四に「弘法大師、修円僧都(しゅえんそうず)に挑みたる語(こと)」という話があります。
嵯峨天皇の時代に、弘法大師(空海)と修円僧都という2人の僧が天皇の護持僧(天皇の身体を守るために祈祷をする僧)に就いていました。
あるとき、修円僧都が天皇の御前で「法力」によって栗をゆでたところ、それがとても美味しかったので、天皇は何度も修円僧都を呼び、栗をゆでさせます。
そのことを天皇が弘法大師に伝えると、弘法大師は自分が御前に控えているときに修円僧都を呼んで栗をゆでさせるよう、天皇に進言します。
すると、修円僧都は栗をゆでることができませんでした。これは弘法大師が法力によって妨害をしていたためです。
このことをきっかけとして、弘法大師と修円僧都は互いに加持祈祷によって相手を殺害しようと試みます。
最終的に、弘法大師が策略によって加持祈祷で修円僧都を殺害することに成功します。
この話は仏教説話にカテゴライズされていますが、あらすじだけを見ればさながら「異能力バトルもの」のような話です。
しかも、仏教の力を利用して「栗をゆでる」とか、とりわけ「人を殺害する」というのは、不殺生に反する点で明らかに仏教的価値観の問題が発生しています。
しかし、よく考えると現代においても神仏に健康を祈ったり、交通安全を願ったりすることがありますが、これらは来世ではなく現世で神仏の利益を得るという「現世利益(げんぜりやく)」を求めている点で類似する行為であり、宗派による程度の差こそあれ日本仏教の特徴の一つとされています。
『今昔物語集』を題材に取った小説を多数執筆した芥川龍之介は、『今昔物語集』についてこのように述べています。
としながら、仏教説話についても
と述べ、前述の弘法大師の説話と同様の仏教的倫理観に反する説話に着目しています。
『今昔物語集』は世俗説話だけでなく、仏教説話にいたるまで率直な人間の心理を描き出しており、この心理は「陰影に乏しい原色」でありながらも古代人にも現代人にも通ずるものだということを、芥川が見出しています。
私たち現代日本人がイメージする仏教というのは、往々にして「神聖」「おごそか」といった表現と結びつきがちです。
一方で『今昔物語集』に描かれる仏教には、古代人にも現代人にも通ずる「俗っぽい」「人間臭い」心理が多々伴っています。
ここに『今昔物語集』の本当の面白さがあるというのです。
冒頭に述べたような表層的な「知識」のみでは、やはりそういった古典作品の本質は理解できません。
芥川にとって、『今昔物語集』は「平安時代末期に成立した説話集」ではなく、「世俗説話から仏教説話にいたるまで、人間心理の原色を描き出した説話集」なのです。
さらにいえば、芥川の見出した面白さが『今昔物語集』唯一の本質であるとはいえません。
読者それぞれが自分なりの面白さを見出すことができればよいのではないでしょうか。